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宇田二三子氏 (当事者)(大阪市難聴者・中途失聴者協会理事長)


聴覚障害者の多様なニーズの実際

               特定非営利活動法人大阪市難聴者・中途失聴者協会
                          宇田 二三子

 午前中のパネラーの皆様が、「私の望むパソコン要約筆記」をテーマにそれぞれお話しなさっておられます。「私が望む」すなわち「ニーズ」ですよね。みなさん、多様な「望む」がありました。

 10人の難聴者が居れば10通りの「望む」があるはず。かぶるところも、勿論あるでしょうが、同じように見えて、微妙に「違う」が、あるはずです。

 その違いは一律に「難聴者」と括れない「聴覚障害をもつ人間」が対象者だからです。
要約筆記は、人と人との関わりにおいてなされる技術です。要約筆記者と難聴者の関係は対等。五分五分の関係であるはずですが、実際は、難聴者側にやってもらっているという負い目が存在します。よく言われる言葉に要約筆記者と難聴者は「車の両輪」。
左右、前後、同じ大きさの車輪が同じ方向に、同じ回転数で進まないと、車はスムーズに進まない。それが、ここ数年、両方がいびつな回転を続けて、今や「要約筆記」は、難聴者から離れたところにあるように感じるのは私だけでしょうか。
誰のための要約筆記か、何のための要約筆記か、その視点にずれを感じます。

 私は30歳ころ、原因不明の進行性難聴と診断され、33歳の時にほぼ失聴状態になりました。健聴の頃の日本語の語彙の豊富さ、言葉のアヤ、言霊とも表現される日本語の美しさなど、当たり前のように耳にしていましたので、失聴して、まず何に飢えたか?
一番に音声言語、つまり、話言葉そのもの。相手が何を話しているのか、その言葉を知りたいと思いました。内容が知りたいのではなく「言葉を知りたい」だったのです。言葉がわかれば内容は自ずとわかります。
 聴覚障害者は手話でコミュニケーションをするとの思い込みで、手話の習得に必死になった時期もありましたが「手話」では、その飢えを満たせません。
 そんなとき、出会った要約筆記は、神様に匹敵するほどのもの。慣れ親しんだ文字で話言葉を書いてくれる。ほんの一部分しか書いていなくても嬉しかった時代がありました。
 でも要約筆記を知れば知るほどその問題点もはっきりしてきました。手書きの場合、話言葉そのままに書こうとするから、書ききれずにばっさりと落とされる。要約筆記者の記憶にある言葉しか書かれていない。言葉を追うのではなく、話している意味を書く、意図をつかんで書くという、現在の指導は、今は、それなりに納得できます。

 私が初めて目にしたパソコンによる要約筆記は、平成8年頃、全難聴の理事会でのこと。その時は、IPトークのようなソフトもなかったように記憶していますが、ワードを利用して、2時間、3時間を一人で入力していました。「へえ〜、こんな事もできるんや。今日は久しぶりに聞こえた気分になったわ」と感動しました。
 
 近年は、人工内耳で聞き取ると同時に要約筆記を利用し、話言葉に飢えた状態からかなり改善されてきたように思っていますが、聞き取りに不安だった言葉が文字になっていないときも多く、手書きであれ、パソコンであれ、「耳で聞いたように読む」ことにはいまだストレスを感じます。
 パソコンで、話言葉そのままに、例えば大阪弁で喋ったら大阪弁で表示されてくると、「ああ、今日は話が聞けた」となるのです。そこにパソコンの良さがあり、難聴者がパソコン要約筆記に期待したことでもあります。
 そんなパソコン要約筆記を手書き並みに要約するのが、パソコン要約筆記だと、声高に主張されると、それはおかしいのではとなります。「話言葉のままにたくさん文字が入力されていても内容がつかめないでは、要約筆記と言えない。だからパソコンも要約するべきだ」と。
難聴者側にも「パソコンではたくさん文字があっても話がつかめない。意図を要約して入力せよ」と主張する人がいます。
 
 難聴者の多様なニーズの実際を語るとき、とっておきの体験があります。知人は、手書き並みの要約した入力をと希望する人らしい。私と同じく人工内耳装用者。その地域では、○○バージョンと言うらしいですが、その人と同席したとき、ほんとにメモ書き程度の入力しかしないのです。で、同じ画面を見せられるこちらはたまったものでない。そこで、私が居るときは、話している言葉はきちんと入力してくれと要約筆記者に頼みました。「えっ!○○さんは、これて良いと言うのですけど」と言いつつも、日頃見慣れた入力をしてくださいました。入力する力量はあるのに、あえてしないのですよ。でもきちんとこちらのニーズに対応できるスキルを持っていると言うことはすばらしいとほめてあげたい。
 同じ、人工内耳装用者ですら、メモ書き程度でと言う人、いやいや話言葉のままにと言う人、パソコン要約筆記に求めるところが違う。

 そのニーズの違いはどこから生じるか。
難聴の程度や育ってきた環境、アイデンティティそれらが微妙に絡み合うでしょうが、大きく作用するのは、「どの程度聞こえているか」がキーワードかなと思っています。
 
 もう一つ、最近こんな体験しました。
例会で、字幕落語を企画し、素人落語家と打ち合わせ、台詞をどのようにパソコンで表示するか、時間をかけてリハーサルをしました。最初、原稿を前ロールにし、1分350字以上の早さでのしゃべくりの文字だけ流してみる。読めるが内容まで理解して読めない。こりゃ、要約する必要があるとなったが、実際に演じてもらって話に併せたスクロールで文字を見ると、言葉の息継ぎ「間」や、所作が入る。ワンテンポだけしゃべくり速度を抑えてもらうと、十分落語を楽しめました。ところが、音声を消して所作と文字を見る。イマイチおもしろくない。やっぱり、満足に聞こえなくても音声が入ることで、心と脳が反応するのだと実感しました。

 昨年のこのシンポジウムで「パソコンによる全文入力とは」の「全文」のイメージが、それぞれに違うことも明らかになりました。
 全文入力とは、
1.話し手が発した言葉を全部入力されたもの。
2.あ〜とかえ〜とか、話言葉のケバと言われる部分はカットされたもの。
3.ある程度、話を再構築して、わかりやすく入力されたもの。
4.意図を中心にとらえて要約されたもの
などがイメージされていましたが、皆さんは、如何でしょうか?

 このほか、手書き要約筆記か、パソコン要約筆記か、要約筆記の手段にもニーズの違いがあります。
 また、
  @できる限り話し手の意図の正確さを求める要約筆記
  Aできる限り話し手の言葉に忠実な表現を求める要約筆記
のように話内容へのニーズの違いがあります。
 
 難聴者の数だけ、要約筆記に求めるニーズに違いがあると思って過言ではないでしょう。だからといって、みんなのニーズに合わせる要約筆記をと言うつもりではありません。
「難聴者の多様なニーズに応えるために」と言いながら、「この書き方、この入力、この指導、この方法、この順序、この要約筆記でなければならない」と多様なニーズを排斥する風潮に懸念を強めています。
 難聴者の多様なニーズに応えうるには、多様な要約筆記を認めることから始めようではありませんかと、提言いたします。